First Stand

人生の棚卸しからの仕切り直し

動機が不安からきていた

よくよく思い返すと、いつも頭の中が常に”あれやらなきゃ、これやらなきゃ”と落ち着かなかった。次から次へ手当たり次第、社会的役割を果たすために必要と思われることをやった。やってもやっても不安で、でもやらなければもっと不安だった。やらないという選択肢はなく、手を抜くなんて自分が許せないような気がしていた。

この不安は、他の人には見えないので、どんだけ不安でやってもやっても自分がただ消耗するだけだとしても、表面的には熱心な人に見えると思う。その点を評価されることもあった。でも、友人にはポロッとゆったことがあった。”本当は不安で不安で、だから仕方なくやってんだよね”と。

もちろん社会的役割を果たすため、仕事としてその役割期待に答えるため、社会的な存在意義のため、そんなもろもろの期待に答えようと思えば、自己研鑽は欠かせない。でも、私のはちょっと違った。とにかく不安で不安で仕方なかった。わたし、これで大丈夫かな?これだけの知識で大丈夫だろうか。こんな経験で大丈夫だろうか。そもそもこれまで生きてきた経緯の中でも、こんな問題を抱えており、人間として大丈夫だろうか。どこか自分には、他の人より大きな欠陥があるような気がして、誰よりも頑張ってなければいけないような気がしていた。誰よりも学びとか、体験に時間を割いて、後天的にでもなんとか追いつかなければと感じていた。

そんなわけで、不安で不安で、駆り立てられて色々やるんだけど、まったく満ち足りた感覚もなく、消耗するだけで、やってもやっても自分は永遠に欠落しているような不安もつきまとって、とにかく不安のスパイラルだった。でもやらないよりはマシ。やらないで過ごすことは不安だし、もっと言えば自分の中で拒否感というか、拒絶感に近いものがある。それは自分にもそうだし、きっと他人に対してもそう。

これだけ不安が強かったのは、自己への否定感が根強くて、自分への確固たるものや安心感もなく、そもそも自分というものがなく、社会的役割を果たすために必死だったんだなと思う。自分がなくて社会的役割だけあるってことはないもんね。自分があって、その上に社会的役割が成立するんだなと今更ね。とにかく、あの頃の不安はすごかった。不安で不安で、やってもやっても不安で不安で。先が見えなかった。自分軸はなくて、不安軸だったな。今思えば