First Stand

人生の棚卸しからの仕切り直し

役割を果たしていないことへの苛立ちを越えた侮蔑

頭が痛い。役割を果たす果たせないということが、自分の中で重要な価値判断の基準なようだ。そして、役割を果たせていればよいというわけでもなく、常に自分に対しては役割を果たせているのかどうか不安であり、大丈夫かな?と思っている。だから、実際に役割を果たしているかどうかというより、感覚的に不安という感じ。でも他者に対して、役割を果たしている人を見れば、期待された以上の役割を果たしているような人なんて、もう最高に尊敬する。

その逆に、自分が役割を果たせていないと思えば超絶自己嫌悪だけど、そもそも基本的に役割を果たせているかどうかわからない、不安モードなので、役割を果たせているかどうかは知るよしもない。仮に役割を果たせているよって外部からの評価を得たとしても、きっと嬉しくもなく満足もしなくて、本当に大丈夫なのだろうかという不安は変わらずに自分の中にある。逆に役割を果たせていないよっていう評価を得たとしたら、どうなるんだろう。そうですよねって感じになるのか、なにくそと反発するのか。ちょっと想像できない。なんとなく、以前から外部の評価はそんなに気にならないようなところもあった。自分は自分と思ったりする節もあって。で、ひとり頭の中で、自分は大丈夫なのかと不安を巡らせるっていうのは、どういうことなんだ。

ときどき、自分大丈夫なのかって思ったとき、元気があったり前向きなときなら、過去の自分を比べて、うん、大丈夫だ、ちゃんと進んでるじゃないかと思いなすこともあるんだな。でも、基本的には、自分大丈夫かと不安ではあるけど。健康的な考え方を取り入れる余地はある。

で、結構辛いのが身近に役割を全然果たしていない人がいるパターン。これね。これが辛い。どこの職場でもいるけど、簡単に言うと任された仕事ができない人ね。そして、さらに辛くなるのが、できないのにそのままその役割を任され続けて、身近にいる自分とか、他のきちんと役割を果たしている人に不利益が起こり、その人のとこだけどこふく風の台風の目状態なやつね。それよそれ。それで頭がくらくらしてきて頭痛がする。

得意不得意があるから、与えられた役割が自分の適性じゃないとか、自分には荷が重いですということで、より適切なところの役割を与えられたらいいじゃない。でも、本人がそもそも不適格ということに気づいていなかったり、ただ人手不足で交代させられなかったり、あるじゃない。そういうとき身近な人の合理的配慮によって、全体のことが進み、周りの人が時間とか手間とか割いて1人の不適格な人の仕事を支える。そういうとき、私の中に言葉に言えない感情が生じるんだよね。苛立つけど、それを越えたもっと憎しみに近いもの。憎悪とか、嫌悪とか、侮蔑とか、拒絶とか。

だからそのパターンの人間関係の配置に自分がある場合、とてもストレスが溜まる。この状況、この人、苦手なパターンだなと思うのは、本当にこれ。これです。まだ、その人が不適格であるということが、周りの人と共通理解で、合理的配慮ありきでその環境がまわってるなら、なぐさめになるのよ。でも、今はそういうところもあるけど、周りの人の優しさや合理的配慮でのうのうと、役割を果たしてもいない人が難しいことを扱う仕事をしている。そのことが、私を何よりも苦しめる。その原因は自分の生い立ちにあるのもわかってるし、他者の役割力不足問題に目が行き過ぎると、他者を否定しながら自分も否定することになってしまい二重に苦しむ。ここの罠にはまると結構ブラックホールなので気を付けないといけない。でも本当に、この役割を果たさないでのうのうと過ごしてる人っていうのが、憎悪でしかないんだよ。